Faculty of International Studies
更新日:2024年10月23日
学生の活動
【国際学部】学生広報委員による先生インタビュー⑤ ~西山先生編~
みなさん、こんにちは。学生広報委員の宮地理子です。
国際学部の先生方に「20代前半は何をし、何を考えていたのか」インタビューする企画の第5回は西山暁義先生にインタビューしました。
Q1, 大学時代は何を学んでいましたか?その分野を専攻にしたきっかけはありますか?
東京大学文科Ⅲ類に進学し、3年次から「進振り(東京大学独自の学科振分け制度)」で文学部西洋史学科に進みました。もともと歴史が好きで、日本史に興味があったのですが、高校時代の世界史の先生がドイツに留学し、ドイツの歴史を専門にしていて、その先生のスケールの大きな授業に影響を受けたこともあり、最終的に日本史?東洋史?西洋史の2つの学科の中から西洋史を選択しました。西洋史の先生は全部で7名、近現代史はイギリス、フランス、ドイツ、ロシアを専門とする4名の先生がいましたが、ヨーロッパの歴史は1つの国だけで完結するものでないと思っていたので、どれか1つを選ぶことには少し違和感がありました。結局、第二外国語でドイツ語を選択していたこともあり、ドイツ史を選んだのですが、私の先生はちょうど東大に着任されたばかりで、授業はとても知的刺激に満ちた、学び考えることの楽しさを感じられるもので、運がよかったです。
卒業論文では、現在フランス東部に位置し、歴史的には戦争のたびにフランスとドイツの間で奪い合いとなっていたアルザス=ロレーヌ地方の歴史を取り上げました。これは、先ほどもふれたように、まさに国家がひしめき合い、その境界がしばしば動くこと自体が―島国の日本では理解しにくい―ヨーロッパの特徴ではないか、と考えたことと、そうした境界に住む人たちにとって国家や国民とは何を意味するのだろう、と疑問を持ち、調べたいと思うようになったからです。大学院ではこの地域の人々が併合をどのように受け入れたのか、また受け入れなかったのか、普仏戦争から第一次世界大戦までの、約半世紀(1871~1918年)のアルザス=ロレーヌ地方における教育政策をテーマにしました。
大学院の時にはドイツ政府からの奨学金で、フランスとの国境にあるドイツの大学(ザールラント大学)に留学しました。ここではフランスのいくつかの大学(パリ政治学院、メス(現ロレーヌ)大学、ストラスブール大学)との合同ゼミを学期ごとに1,2回ほど開催していました。合同ゼミでは必ずしも共通の言語で話すのではなく、フランスの学生はフランス語を、ドイツの学生はドイツ語をそれぞれ話しており、そうであってもコミュニケーションが成立していることに新鮮な驚きを感じました。留学2年目になって、この合同ゼミで発表の機会を与えられました。アルザス?ロレーヌのことを自分の地域の歴史として研究している人たちの前で、ドイツ語で報告しつつフランス語の質問にも応答しなければいけない状況に非常に緊張し、どう乗り切ったのか正直はっきりと覚えていません。しかし、報告後にそれぞれの大学の先生から評価の言葉やアドバイスをもらったり、若手の研究者からも研究室での雑談の際に声をかけられたりするようになりました。ドイツ語とフランス語のバイリンガルなコミュニケーション空間にアクティブに参加できたことは、大きな自信になったと思います。
◎留学時代のエピソードが書かれた過去の記事はこちら
Q2, 大学時代に力を入れて取り組んでいたことは何ですか?
準硬式の野球部に所属し、力を入れて取り組んでいました。父が甲子園での優勝経験があり、高校野球の監督を務めていたこともあり、自分も野球をやりたいと思ってはいました。ただ、中学、高校時代は通学に2時間かかっていたため、なんとなく楽そうなイメージだった硬式テニス部に所属していました(高校は帰宅部)。大学受験が終わると、今まで出来なかった野球をやってみたいと思い、学業と両立出来る準硬式の野球部に入部しました。準硬式とはいっても、リーグ戦で戦う東京六大学の他の大学には甲子園経験者もそこそこいて、苦戦の連続ではありましたが、私たちやその前後の学年は健闘し、東京六大学の中で6位が定位置だったところ、4年秋の最後のシーズンではあと1勝で2位のところまで肉薄し、負けた悔しさだけではなく、勝利の歓びも何度か経験することができました。私自身も、2年次から4番を務め、4年の春のシーズンでは、六大学でサードのベストナイン(守備位置ごとに、そのシーズンで最も活躍した選手を選出し、表彰するもの)に選ばれました。
野球部での経験はドイツ留学時代にも活きました。ドイツではサッカーが主流で、野球はマイナーなスポーツだったので、野球を知っている人が少なく、留学先の野球サークルでは自分が教えたり、アドバイスを求められたりすることもありました。短期間でしたが、そこでは研究室とはまた違った、リラックスした交流ができました。
Q3, 将来の夢は何でしたか?また、当時の不安や悩みがあったら教えてください。
大学入学当初は、研究者になれればいいなと漠然と考えていました。大学時代には教職(地理?歴史)も取っていたので、4年生の時に教育実習に行き、授業だけでなく、部活で野球の指導も手伝い、とても楽しかった記憶があります。教育実習の経験から中高の教員になるのもありかなと思ったと同時に、企業でサラリーマンとして働く選択肢は自分の中で消えました。しかし、やはり教える前にまずは研究がしてみたいと思い、大学院を受験したら運よく合格し、研究の道を進むことにしました。大学院に入る際、恩師の先生からは、この職業は将来が不安定であり相当な覚悟が必要だと強調されたこともあり、好きなだけでは生活していけないという不安はありました。それでも、留学の機会を始めとして研究に打ち込める環境を与えてもらった以上やるしかない、理解し、支えてくれている人々のためにも論文を書かなければ、という思いで取り組んでいました。
Q4, 現在の職業までの経緯を教えてください。
30歳で大学院博士課程を満期退学した後、日本学術振興会の特別研究員(PD)となり、大学の非常勤講師もしながら博士論文を執筆していました。その間、声をかけられて32歳の時、当時は八王子キャンパスにあった共立の国際文化学部(現?国際学部)に着任することができ、現在23年目となります。論文は共立に着任した年に完成させ、翌年に学位を取得しました。1年目に新任教員としての授業の準備と並行して論文を完成させるのは少々きつかったですが、学部の先生方に助けていただきつつ、何とか乗り切ることができました。
Q5, 学生時代にやっておけばよかったことはありますか?
今までの人生に悔いはありませんが、あえて言えば、学部時代に留学しておけばよかったです。院生になってはじめて研究のために留学しましたが、すでにお話ししたように、学部時代は野球に力を入れたり、ゼミなどでも分野柄外国語は必須でしたが、コミュニケーションよりは歴史研究の講読が中心で、ライティングはもちろん、スピーキングやヒアリングの機会もほとんどありませんでした。多感で吸収力のある20歳前後で語学力やコミュニケーション能力を高められたらよかったかな、と思います。
Q6, 私たちが学生時代にやっておくべきことは何ですか?
異文化を知り、視野を広げる経験をしてもらいたいです。物事の見方は1つではなく、自分がもっている視点は限定的で、どこでも通用するわけではないかもしれません。違いに直面すると、自分の視野の狭さを痛感します。なぜ異なるのか、国、ジェンダー、宗教など多面的、多角的な観点から検討し、それぞれにどのような合理性があるのかを知ることが大切です。ただし、安易に分かったつもりになる前に、分からないのはなぜなのか、ということ自体を考えてみることが必要です。そして大学は失敗することが許される場なので、恐れずに挑戦し、試行錯誤しながら学んでいってください。
Q7, 国際学部の学生に向けてメッセージをお願いします。
さまざまな見方を突き合わせて考えることは、日々の生活の中でも必要です。考え方の違うものにぶつかり、自分の見方、考え方の狭さや限界を知り、それを乗り越えようとすることが、知的、精神的成長に繋がります。そうした過程をさまざまな―身の回りや異文化、グローバルな―場面で活かしていってほしいです。
今回のインタビューを通して相違への捉え方に新たな気づきを得ました。例えば合同ゼミではドイツ語とフランス語の両方が使われていたように、どちらか1つに合わせたり、共通のものに変えたりする必要は必ずしもないということは目から鱗でした。共存する相違に対応するにあたり、まずはその違いをしっかりと理解する必要があることも学びました。私自身、授業を通して国やジェンダー、文化の違いを知ることはあっても、実際に直面する機会は少ないです。失敗を恐れずに共存空間に飛び込んでいきたいと思いました。
また学生時代に力を入れていた野球部での経験が留学先で活きたエピソードが印象的でした。部活を始めとして、学生時代の経験は一時的なものではなく、どこかで活かされるものなのだと改めてわかりました。今後も常に挑戦していきたいです。